我が家に猫が現れるようになったのはいつの頃だったからだろう。記憶が曖昧ではっきりと思い出せない。
今の家に引っ越して初日に隣の飼い猫”たま”が近寄って来てくれたことをよく覚えている。しかし、家に入ろうとしたとこを拒否したため一気に距離が開いてしまったのである。名前を呼ぶと一応振り向いたりと反応はしてくれるが、二度と近づいてくることはない。こんな時、言葉によるコミュニケーションが取れない歯痒さがある。
猫派の私を作った幼少期の体験
わたしは、根っからの猫派である。幼少期の体験からそうなっているのはごく自然なことだと思っている。私が、小学校の低学年生の頃に一匹の生まれて間もない子猫を我が家に迎え入れることとなった。いわゆる物心つかない頃にたった一匹で人間界にやってきたのです。名前は”しろ” ご想像のように白い毛が多いからというありきたりの理由。しろはいつもべったりの状態で育ち、布団の中に入り込んでくるのが嬉しかった。兄弟でしろの勧誘合戦が繰り広げらるということがしばしばあった。女の子であったのでやがてお母さんになったのですが、しろの子供は一匹だけ残し他は山に。。。子供の私たちは泣いて抵抗したが、親にしてみれば辛い選択であったことでしょう。
しろにしてみれば、わたしも同じ我が子みたいな感覚だったのではないかと思う。いつも顔をぺろぺろと舐めてくるし、まさに猫可愛がり。学校から帰ってくるといつも飛びかかってくる。机で勉強しているとそばにじっとして見守っているし、テレビを見てる時はあぐらに乗ってくる。
よく、「犬は人につき、猫は家につく」ということばあるように、ねこは確かに気まぐれで、犬のように人に忠実というタイプではないことは確かである。いわゆる自由人です。
だから、わたしが学生寮に入って約半年ぶりに帰省したとき、しろはもう私のことは覚えていないかもしれないと半分諦めの心境だった。もしそうだとしても仕方のないことだと思っていたことをよく覚えている。しかし、実際にはわたしの不安とはまったく真逆の反応だったのです。私を見つけるやいなや、ものすごく興奮して駆け寄ってきてた。わざと逃げる私を追っかけてこたつの周りを2・3周したあと首元に飛びついてきた。そのときのしろの荒々しい息づかいは決して忘れることはない。私の大事な大事な宝物。
野良猫のアイちゃん
私が住む住宅地はなぜか野良猫が多いようである。春先の頃、活動が活発になり夜になると雄達の求愛をめぐる睨み合いが頻発する。ときに、低く唸る声。そうかと思うと狂気に満ちた甲高い絶叫。これは本能に従う生存競争である。春を感じながらも、やはり”うるさい”というのが本音であろう。
街の猫達を観察していると、仲の良いグループが同じ場所にたむろしていることが多い。また、この地区は黒猫が多く、遠目からもよく目立つ存在でどれも同じに見えるのだけども、実はかなり顔立ちが違うということがわかってきました。
我が家の裏庭には花壇と芝があるため、猫にとっては格好のトイレとして重宝しているみたいで糞がよく転がっている。その利用者のグループにアイちゃんがいる。DNA鑑定をしたわけではないので確証はないのだけれども、顔が似ていることから親子であると推測している。アイちゃんは黒猫のお父さんと、青い目のシャム猫お母さんとの間にできた子供ようである。
いつも、一緒にいるから親子だと思っていたのだけれども、その振る舞いはなかなかの毒親な気がする。そして、その手口はまるで”ポン引き”のようで、弱々しいアイちゃんを使って餌をねだらせて、餌をアイちゃんに与えた途端に傍から二匹が現れて餌を奪い取るといった行動をするのである。
そして、アイちゃんはなんとなく不器用なのか食べるスピードも遅いから余計にかもられている気がする。そんな、不器用で弱々しいアイちゃんにとっては”驚異の粘り”だけが唯一の強みなのかもしれない。とにかく窓越しにじっと待っているのだ。そんな姿を見ているとほっとけない。
アイちゃんの生存戦略は”アーリーバード作戦”とでも言おうか、とにかく他のものよりも早くから待つ。そして、願わくば横取りされたくないから少しでも時間をずらして毒親の機嫌を損なうことなくやり過ごしたいのではないかと感じる。
脅威の恋愛テクにタジタジ
動物界の求愛行動はかなり情熱的でなかなか興味深い。人間も動物の一種であり、種の保存という観点からすると動物たちは成功者であり、大先輩なのではないかと思う。
また、動物は感情豊かであることもよく知られています。SNSにながれる動物のショート動画でもその様子から伺い知ることができます。
そして、動物達は欲や本能のままに暮らしている。特に食欲を満たすことは生命の維持に直結するため最重要項目なのだ。猫の本能の一つとして、家に住みつくネズミを捕食することもあげられる。親猫を知らず、人間の家族のなかで育った一人っ子の”しろ”でさえもネズミを捕まえては私たちのところに見せにきていた。
野良猫のアイちゃんは、小動物の捕食には興味がないのか昆虫などにもあまり反応しない。彼女の生きる術とは、いかに人間から食べ物をもらうかというテクニックを磨いてきたのではないかと感じる。
しかし、一方では生命の危機というか殺処分などの身の危険を感じてか、自分の体を触れられるのがとても嫌いなようですぐに逃げてしまう。これは、生粋の野良猫ではしかたのないことなのかも知れない。
夕方お腹がすいて食べ物を欲しくなったころが私の帰宅する時間と重なり、野良猫のアイちゃんは、車の音に反応して姿を現します。そして、その演出がまるで女優なのです。時折、玄関前でわざとらしく待ち伏せする母猫とは対照的に、私が駐車するときバックミラーを覗き込む私の視界にさりげなく写り込むという出迎え方をします。まずは私に自分の姿をさりげなく気づかせるのですが、その時の姿はまったっくガッツいてなくおしとやかな佇まいを漂わせています。
私はどうしても気になるから、車の後方にチョンと座ったアイちゃんを見にいってしまう。そのとき、アイちゃんは私の方を見ているのだけども甘えた声を出しておねだりしたりしない。ただ自分のことを私が認識したことだけを確認したら家の裏庭へと向かう。
裏庭の縁側に来たアイちゃんは何食わぬすました顔で窓越しに佇んでいる。この時はちゃんとしたお座りの姿勢を保っているのでシルエットもきれい。多分これも計算しているのではないかと思う。私が窓の近くに現れると予測しているときは窓のそばでちゃんとお座りしているのですが、あるとき「お迎えモード」に入る前の様子を覗き見してみるとデレーっとして寝そべっていることがわかった。やっぱり女優さんみたいな猫なんです。
そうかと思うと、隣家で食べ物をもらった後に我が家に立ち寄る時などは、かなりすました感じで私が話しかけても相手にせずさっさと立ち去ってしまう。もちろん、お腹が満たされた時は車を降りる私を出迎えてはくれない。
なかなか縮まらないアイちゃんとの距離
アイちゃんを私物化しようとする人間たちのエゴによって、余計に恐怖心を植え付けてしまっているようである。
避妊手術も私の勝手なエゴでもある。そして、できることなら家猫になったらいいのになとも思っていました。だから、身なりを清潔にするためにアイちゃんを何とかお風呂に入れようといろいろ試みたのだけどもどれも上手くいかない。餌を夢中で食べているときを狙ってブラッシングを試みるも気に入ってもらえずじまいでした。それでもこの頃は家に入ることにだいぶ抵抗がなくなっていて、この調子だと近いうちに撫でることもできるのではないかと期待していました。
実際、アイちゃん超近距離まで近寄ってもまったく嫌がったり、逃げたりもしない。古いクッションをベッドにしたら結構気に入った様子でお腹をだして仰向けでイビキをかいて寝る姿を見ることができました。ここまでくるともう大丈夫かなと思って頭を撫でようとした途端にガン見で拒絶されてしまったのです。どうも最後の壁を越えることはできないようである。
だけど、我が家の窓辺にはかなりの確率でアイちゃんがいる。食事を終えて「もういらない」と言わんばかりに食べ残して去っていったかと思うと、しばらくするとまた窓際に佇みじーっと室内をただ見つめているアイちゃん。家の中に入りたいのだろうか? それとも、やっぱり小腹がすいたのだろうか? 窓を開けてみても反応がない。言葉を交わせないもどかしさだけが残る。
もともと、市販のドライキャットフードを美味しそうに食べてくれてたのに、避妊手術をしてしばらくたった頃から、グルメ猫になってしまいドライキャットフードを食べてくれなくなったのです。きっと、美味しいご飯を食べさせてもらって舌が肥えてしまったようです。今ではご飯を食べに来たらいつでも食べれるように鳥のささみを調理してほぐしたものを作り置きしてあります。
いったい「なにが彼女にとって幸せなのか?」私にもアイちゃんにも答えはわからない。
無理やり家に閉じ込めることはできるが、はたしてそれが彼女にっとて幸せと言えるのだろうか?
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